イズミのブログ

お金とか、なんだかんだ。

無駄な大学へ行って、家計も国も食いつぶす者たち。

学問とは、ただむずかしき字を知り、解げし難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。

学問というのは、ただ難しいことを知って詩や文学を作るような、実際の世の中の役に立たないことを言うんじゃないんだ。

これらの文学もおのずから人の心を悦よろこばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴とうとむべきものにあらず。

そういうのもまあ人を楽しませるという意味では役には立つが、それほどありがたがるものでもないよ。

古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟(ひっきょう)その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。

昔から、学者や芸術家にはしっかりとお金を稼げる者は少ない。だからこそしっかり者の町人や百姓は、子供が勉強でもしていると「まともな暮らしができなくなるのではないか」と心配したものだ。無理もない。結局その学問が人の世の役に立たぬ証拠である。

されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬(たとえ)ば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言(もんごん)、帳合いの仕方、算盤(そろばん)の稽古、天秤(てんびん)の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。

だから今はこのように役に立たぬ学問は後回しにして、もっぱら勉強するべきなのは世の中の役に立つ「実学」である。たとえば語学、会計、機械の操作を学び、まだまだ学ぶべきことは多い。

 

 

 

 

まあ、金にもならないことを勉強するのは後回しにしろってことよ。

金にならないことを学ぶのは、金が必要なくなっている人たちであって、暮らす金もないのに哲学を学んだりすることは遊んでいるのと同じだ。

「金にならない基礎研究も必要だ」とは確かだが、その研究は金を持っている人たちがやってもいいのであって、暮らす金がない人はやはり基礎研究に夢を見るよりも先に自らの生活費を稼ぐべきであって、これは優先順位の問題である。

 

 

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